2013年9月23日月曜日

十年のあゆみ 最終話

 神戸市立西戸田少年保養所「十年のあゆみ」の最終話は、原口市長のお言葉です。我々の子どもの時代の神戸市長と言えば、原口忠次郎市長か宮崎辰雄市長だったですね。どちらも、5期、20年にわたる長期の在任でした。高松宮妃殿下のご訪問の際、宮崎市長(当時の助役)が同行され、写真にも写っておられます。

 
 ごあいさつ

 健康にめぐまれないということは、人として最大の不幸であります。
 家庭も、団体も、社会も健康にもとづくはたらきが、如何に重要なことであるかは申すまでもありません。
 これがため、私は明るく、住みよい、健康な神戸市を建設するための施策を市政に反映させるようつねに考え、その実現に努めてまいったのでございます。
 由来、神戸市では、結核の罹患率並びに死亡率が高く、憂慮されておりましたが、近年漸く成人病にその席を譲り、とみに減少してまいりましたことは、医学の発達とともに、衛生関係者の努力に負う所が尠くありません。
 治療しながら勉強のできる特殊な施設として、神戸市立少年保養所並びに西戸田小、中学校を垂水区平野地区に設立して以来10年の歳月を迎え、この間に千余名の入所結核児は、健康を回復して、家庭に、学校あるいは社会に、復帰して活躍している現状をみるにつけ、今後衛生行政の一翼として、この少年保養所が、10年の貴重な経験を基礎に、着実な進展をはかり、神戸市民の健康に寄与することを祈ってやみません。
 10年のあゆみ発刊に当たり、一言ごあいさつを申しあげます。

 昭和36年4月
 
 神戸市長  原口 忠次郎



2013年9月22日日曜日

十年のあゆみ その13

 「十年のあゆみ」の未掲載のページも残り少なくなりました。今回は、神戸市教育委員会、委員長、木戸只一氏の寄稿文をご紹介します。

西戸田の燈台守
  教育委員会 委員長  木戸只一

 およそ人間として明るく住みよい社会を希望しないものは一人もありますまい。家庭に明るさを、社会生活に住みよさを与えてくれるものは、数多くあるに違いありませんが、そのうちでも一番明るさをもたらし、生活を楽しいものにしてくれる原動力は、なんといっても子どもたちです。家庭のうちが明るく、子どもたちの楽しげな歌声が戸外にもれてくるのを聞くと、知らず知らず、ほほえまれてくるものです。健康な子どもこそは、家庭を明るく、住みよくする燈台です。ところが、幼年期から少年期にかけての子どもたちは、いわば竹の節のような時期ですから、身体がどうしてもアンバランスになりがちで、身体の調子が狂いやすく、発病もしやすい時です。
 この時期に発病すると、将来の健康にとり返しのつかない身体にならないとも限りません。特に呼吸器系統の病気は、ともすればその子の一生を左右しがちです。もしいとしい子が胸部疾患などに侵されたら、家庭内は火の消えたような、淋しさと暗さにとざされて、両親の顔から明るさが永久に消え去ってしまいます。
 子どもたちの健康を守り、これをさらに増進して、家庭を明るく住みよいものにしたいと念願するのは親心のつねです。その貴い親心を、何とか成就させてやりたい一念から、神戸市立少年保養所は生まれたのです。その生まれる発端は元神戸市衛生局長の阿部さんです。当時阿部さんは、厚生省の企画のなかに、少年保養所の設置があることを、いち早く知って、これを神戸市に誘致した先立ちです。
 原口市長さんや市会の方々のご理解とご援助をいただき、さらには地元の人たち、その他多くの人々の善意によって、少年保養所はすらすらと誕生しました。以来10ケ年の歳月がながれて、今日にいたったわけです。
 神戸市内には20万に近い児童生徒がおりますが、この人たちから胸部の疾患を根絶して、健康にはぐくむそのオアシスは西戸田の少年保養所です。この保養所こそ子どもたちを健康に育てる燈台です。この燈台の火は、ここ十年間、共にその燭光を倍加しています。神戸市民の家庭生活を明るく楽しいものになる原動力の一つが、この西戸田の保養所ではないでしょうか。
 所長さんや校長さん、その他この保養所に関係する多くの方々の苦心と努力は、なみ大抵のものではありますまい。それはちょうど人里離れた洋上の孤島で、日夜燈台を守っている人々の苦心に通じるものがあるでしょう。
 
この一文に添付されている写真です。遠くに見える建物が保養所なのでしょうか。

 

2013年9月21日土曜日

十年のあゆみ その12

 学校というページに、「くらし(冬期)」と題して、下記の一文が掲載されています。この文章は、「西戸田の四季」第1回目に引用させて頂いたものですが、再度紹介させていただきます。




くらし(冬期)

 児童の生活は午前7時 の起床に始まる。着替 え、洗面、その他1日の暮らしの準備、朝食。それから第1回の安静時間(Cクラスのみ)を終え、午前9時、廊下伝いに学校へ登校する。午前の中に、40分授業 を3回受けるが、その間に「処置の時間」があり、治療、投薬が施される。月1回は、体重測定、肺活量の測定、血沈検査が行われ、時には自動車で、他の病院へ 断層撮影、耳鼻科の治療などに出ることもある。12時、昼食。それから午後2時かっきり第4校時が始まるまで、大安静の時間になる。広い保養所がシーンと無気味 なほど静まりかえるのはこの時間で、一般学校なら1日中で最も騒々しい時間のはずである。所長回診や、X線写真撮影、検温記録はこの時間に行わ れ、やがて 2時になると、なお1時間の安静の続くCクラスを残して、A、Bクラスが登校する。
 2時40分、そろって「おやつ」。3時から3時30分まで第5校時。それから5時の夕 食まで、広い庭で遊んだり、入浴したりする。夜は、8時の消灯まで、本を読んだり、手紙を書いたり、テレビを見たりーー思い思いの自由時間を楽しむが、何しろ一年中、ここから一歩も出ない児童達である。遊びの種類は知れているし、しばらくすると、飽きがくる。それで保養所や学校で計画する行事には、想像をはるかにこ えた期待(夢)がかかる。映画会。お誕生会。描画会。七夕祭。ゴルフ会。盆踊り。ボーリング会。バス遠足。クリスマス・パーテイー。節分豆まき。模型飛行機をとばす会。ひなまつり。里の会総会。それに、高校生大学生、事業団の慰問など。
 催しの時の食事は行事にちなんだ特別献立がたてられる。

生活日課表


2013年9月20日金曜日

十年のあゆみ その11



 掲載されている最後の資料編は、収支に関するものです。少年保養所は、 毎年、1千万円の赤字経営だった事が分かります。また費用負担区分のグラフが最後に示されております。国民皆保険制度が実現したのが昭和36年であり、自費治療の患者、保険治療の患者があり、医療患者と云うのは、結核予防法による医療公費負担患者の事であったと思われます。


 収支




費用負担区分




2013年9月19日木曜日

十年のあゆみ その10

 今回は、職員や土地、建物についての集計です。私が「貯水槽」で、古い食堂と風呂場が壊され、新しい食堂がその場所に造られたと書いていたのは間違いで、昭和33年3月に完成したのは、第1病棟の東寮だったのですね。












2013年9月18日水曜日

十年のあゆみ その9

 退所者730名にアンケートによる健康調査を行い、その結果が報告されております。入所治療して良かったと云う回答がなんと93.5%でした。手術を受けた方の経過も良好の様子です。

健康調査成績




 8.術後の経過




2013年9月17日火曜日

十年のあゆみ その8

 治療集計の第3回です。在所者数のグラフによりますと、10年間の平均として、約100名の児童が常時在所しており、各人の入所期間の平均は約1年であったようです。また、手術の症例数が示されていますが、手術は玉津療養所で行われました。



  入所者数と退所者数




  1日平均在所数調と平均在所期間(月数)


外科手術例


2013年9月16日月曜日

十年のあゆみ その7



 治療集計の第2回です。喘息などの合併、胸部X線所見上の病型分類についての集計です。







 年次別合併症調


 年次別に合併症を調べると昭和33年度より結核性疾患以外の合併症もやや増加の傾向にあることがうかがわれる。


最近3年間に於ける病類別調べ

2013年9月15日日曜日

十年のあゆみ その6


 この「十年のあゆみ」には診療と題して、少年保養所10年間の集計資料が掲載されています。





診療

年次別転帰調


 1.死亡例  0
 2.本表の退所人員数が退所者数グラフに示す1,013名より30名減は玉津療養所への転医患者の事務取扱手続きの相違によるため。


 年次別化学療法実施の状況
   化学療法実施例が年を逐って増加しているが特に昭和30年からの増加が著しい。


2013年9月14日土曜日

十年のあゆみ その5

 今回は、神戸市衛生局長の堀道紀氏が、「十年のあゆみ」に寄稿された文章です。少し長い文章ですが、その当時のご苦労が感じられる一編ですので、その全文をご紹介いたします。

神戸市立少年保養所創立10周年記念誌によせて
                 堀 道紀

1 開設の経緯について
 少年保養所の開設は神戸市衛生局が発足して始めての新設事業であったことで記念誌発刊にも重要な意義を見出し得るとも云えよう。即ち神戸市衛生局が発足したのが昭和22年8月、そして緒方英俊先生が中央市民病院長から初代局長として就任され、不肖も大阪府から招かれて防疫課長に就任したのは同年9月16日であった。緒方先生は満1ヶ年で退任されたあとに阿部敏雄先生が2代局長として厚生省から天下りして来られた訳であるが、当時は私自身も終戦直後の惨鼻を極めた、天然痘、発疹チフス等の悪疫防疫作業をあらかた片付け、占領治下ではあったが今後の市衛生行政を如何に発展せしめるべきかについて阿部局長の下でいろいろ再検討する段階に入った頃であった。
 そこで衛生局の機構改革が私の発案で先ず採り上げられ、当時の庶務、保健及び防疫の直属3課と作業部(部長森川氏の下に第1、第2の二課)を庶務、医務、公衆衛生及び予防の直属4課とし、更に作業部も従来の第1課(塵埃)、第2課(屎尿)の外に第3課(鼠族昆虫)の3課とした機構が実現したのであったがこの事務措置に就いては当時の寺畑企画課長(現兵庫県総務部長)と狩野課員(現人事課長)等にお世話になったことを懐かしく思い出す。以上の本庁関係組織の外に、中央市民、須磨市民、東山市民病院と各保健所等の新職制の外に衛生研究所をも発足せしめたが、私自身新職制の下で衛生研究所長兼医務課長の発令を受けたのは昭和24年4月であった。その頃漸く結核予防活動としての集団検診等の事業も軌道に乗りつつあった頃でもあったが、特に学童の結核予防を厚生省が大きく採り上げた頃でもあった。時の厚生省結核予防課長は小川朝吉君(現愛知県衛生部長)で、同君は例のエネルギッシュな仕事をされて先ず学童結核予防事業としての学校併設の小児結核予防、治療施設を6大都市から整備しようと云う段階でもあった。即ちこの第一着手として神戸市に少年保養所開設の議が小川課長から持ち出され、昭和24年度の国庫2分の1補助の公共事業として神戸市に於いても実施と決定、市会の承認を得たのであった。この種の施設としては戦前既に名古屋市と横浜市に教育関係(文部省)主管のものがあったが、戦時中、中断されていた。小川課長はかかる施設は衛生関係主管とすべきとの構想の下に企画され、神戸市立少年保養所がその新構想の施設として全国にさきがけて開設されることと相成った次第であった。

2 開設の具体的運びについて
 扨このような構想の施設を何処にどのようにして開設すべきやについては、私は当時の医務課係長の福田勇君(現伊川谷出張所長)に命じて種々考究企画させ、本省関係との事務折衝をも行わせたが、本施設の実際的な産婆役は福田君であると言えよう。学園併設については当時の木戸教育長を始め、田渕体育課長と南学校保健係長(現中央市民病院庶務課長)等、教育委員会の関係者の協力を仰いだが、土地の撰定には相当手を焼いたことであった。旧市内に適地を求めたけれども何れも「帯に短し、たすきに長し」の類で仲々見つからず、その頃新しく合併された旧明石郡の町村域に探究の手が延びたのも自然であったとも言えよう。その第一候補として当時日本海員掖済会結核療養所として設立されたまま放置されていた、現市立玉津療養所の土地建物が挙げられた。斎藤助役や阿部局長らと共々に、玉津町所在の土地建物を視察した結果、可なり宜しいと云うことで掖済会側と買収交渉に入ったところ、価格がてんでお話にならないため、中止となった。この建物が改めて神戸市立玉津療養所として発足したのはその2年後の昭和26年度末であったことは周知の通りである。
 その頃私自身新合併の町村の元隔離病舎を視察中で偶々玉津出張所に参上したことがあった。時の初代出張所長は旧村長の安井弥八君であったが、(医師で後に垂水保健所長にも就任してもらた)、同君と一杯傾けての話し合いの途中で、少年保養所の候補地難の話をしたところ、同君は、平野(現地)の川崎航空の結核療養所跡はどうだろうかとの御話が出た。善は急げとばかり、玉津から平野に参り、初代平野出張所長戸田純一氏の案内で具に現地調査を行ったのであった。「古き都を来てみれば、あさぢが原とぞ荒れにける。月の光はくまなくて、秋風のみぞ身には泌む」という平家物語の詩篇の感が深い、土地、建物のたたずまいではあったが、敷地18,000坪(うち平地8,000坪、山地10,000坪)、建物は、老朽した3病棟が、ほこりにまみれて寒々と建っていたことを憶いだす。併し、暴風雨で倒れたという本館を建設すれば、3つの旧病棟は、補修で何とか使用出来ると考えられたのであった。その後所有者との間の買収交渉に入り、その価格も予算上丁度よろしいし、市当局、市議会関係の事務折衝もスラスラと運んで、漸く少年保養所開設の目途がついたのは昭和24年も残り少なくなっていた頃であったと思う。
  そこで「エピソード」が一つ、それは当時の市会衛生常任委員会の委員長は垂水区選出の吉田粂一議員、副委員長は兵庫区選出の渡辺軍二であったが、吉田委員長は、旧建物の危険性について十二分の駄目押しをされたものであった。例えば旧建物の柱の太さなど、余りに細を穿った御質問であったので不思議に思ったところ、吉田先生の曰く、「あの建物の危ないことは、我が輩が最も熟知している。何となれば終戦間近い頃川崎航空から建物を請負った当人は、自分自身である」との御託宣には 全く恐れ入った次第であった。その後旧建物の補強には、特に配意したのでその後のジェーン台風の時も倒潰もせず一度の災害もみなかったことは一に吉田議員の御注意の賜でもあったろうと今でも有難く思っている次第である。斯くして第1期工事の本館の新設と、旧建物の補修が、飯田組の手で行われ、昭和25年1月末に、大島芳生所長、田中良一事務長以下、二十数名の職員の発令を行って3月下旬に若干名の学童の入所を見、昭和24年度開設の面目をやっとのことで果たしたのであった。尚初代の附設学園長として教育委員会から、御手洗先生の着任をみて、併設の教育事業も並行して極めて円滑に進行したことも感謝に堪えなく思った次第であった。
 その後早くも10年の歳月が流れて、所長も第4代目の荒木林三博士となり、同博士の御依頼でこの拙文をものにしたが、開所式当日のスナップ写真を引き出して眺めたところ御臨席の原口市長も極めてお若く、そして私自身も尚少年(?)の俤すら見出し得て、独り感慨に耽った次第であった。

(昭和35年11月14日於富山市官舎)
(前神戸市衛生局長、現富山県衛生研究所長)
  

2013年9月13日金曜日

十年のあゆみ その4

 今回は、年次表と地図をご紹介します。


年次表

昭和24年5月1日   厚生省より神戸市に小児結核療養所を設置
            するように指示あり。
昭和24年12月24日 開設告示(神戸市告示第76号)
            元川崎航空機株式会社が結核療養所として
            設立中の土地、建物を買収開設(建物489坪
            土地17,801坪)   
昭和25年2月20日  初代大島芳生所長任命
昭和25年3月15日  病院開設許可(知事兵庫県司令第6123号)
昭和25年3月16日  事務開始(所長以下24名、学園主任1名)
昭和25年3月26日  事務開始(第1回入所生10名を迎える)
昭和25年4月6日   平野学園附設(保養所内併設)
昭和25年5月31日  本館、特別病棟新築竣工
昭和25年8月15日  開所式原口市長出席の下に多数来賓を迎え
            盛大に挙行
昭和25年8月31日  入所生91名となり、ほぼ満床となる。
昭和25年8月31日  平野学園は発展的解消し、神戸市立西戸田
            小学校、西戸田中学校として独立設置され
            初代校長金沢大助氏着任
昭和26年10月8日  第3病棟、講堂新築竣工、食堂改竣工
昭和26年11月22・23日 全国小児結核保養所長並併設校園長
            会議、当保養所で開催
昭和28年5月25日  西戸田小、中学校舎第1期工事竣(保養所
            敷地内)
昭和29年5月30日  西戸田小、中学校舎第2期工事竣工
昭和30年11月6日  第1回西戸田里の会(同窓会)発足
昭和31年3月30日  大西寿子所長着任
昭和31年4月15日  波多野正雄校長着任
昭和32年11月18日 結核予防会総裁秩父宮妃殿下をお迎える
昭和33年3月31日  第1病棟東寮改築竣工
昭和33年4月1日   戸田隆雄校長着任
昭和33年4月15日  小川惟熙所長着任
昭和33年5月20日  調理室及び浴室改築竣工
昭和33年7月3日   西戸田小、中学校第3期工事竣工
昭和34年10月5日  第1病棟西寮改築竣工     
昭和35年5月1日   荒木林三所長着任



地図


2013年9月12日木曜日

十年のあゆみ その3

 この「十年のあゆみ」が編集されたのは、昭和36年(1961年)であり、私が退所して3年後です。懐かしい先生方のお姿や所内の景色を目の当たりにすることが出来、感激しております。さて今回は、「学校」、「10年の移り変り」と題して掲載されている、残りの写真をすべてお届けしたいと思います。

「学校」



理科の実験

図工の時間

国語の時間

「10年の移り変り」 

開所当時(本館)

開所式

現在の保養所

現在の保養所

秩父宮妃殿下をお迎えして

全国保養所長会議




2013年9月11日水曜日

十年のあゆみ その2

 この「十年のあゆみ」という小冊子の第1ページの一部分に、分からないくらいの本当に小さな字で、「6年 柳原一敏」と書かれています。昭和36年に在籍されていた方のお名前と思われます。この方の小冊子が、なんらかの経緯を経て、今、神戸市文書館に所蔵されているのでしょうか。さて、この「十年のあゆみ」には、20枚程度の当時の写真が掲載されており、「生活の記録」と題する部分を今回ご紹介します。

 生活の記録

食事



模型飛行機を作る



処置


クリスマス

 
日時計を囲んで皆楽しく




遠足


節分



回診



歯科治療