2020年8月14日金曜日

保養所百景 昭和47年卒業記念碑

 少年保養所70周年の記載の中で、「昭和47年卒業記念碑」について触れたのですが、詳しく紹介させて頂きたいと思います。1972年、昭和47年西戸田養護学校卒業の中学3年生の方々が、卒業記念として石碑を製作されました。コンクリート製だったでしょうか。保養所の裏山、当時は遊歩道もあった所に設置されたようです。

 その製作に携わった藤原さんと云われる方が、30年後の2002年に、廃墟となった少年保養所を探訪されました。そして、その記録「西戸田の47年卒業記念碑を見に行ってきました。2002年6月1日」を、後日、西戸田の四季に提供して下さいました(2012年5月掲載)。この貴重な記録から我々も、作製された時の記念碑の姿、2002年に再訪された30年後の記念碑の姿を知る事が出来ました。

1972年 作製時



1972年 作製時
2002年 30年後
2002年 30年後
 
 さらに、植杉さんと云われる昭和47年記念碑の製作仲間の方からも、記念碑を取り囲む卒業生の写真を提供して頂きました。

1972年 作製時
 
 2015年、第4回西戸田同窓会が明石で開催された時、参加者の有志が少年保養所跡地の平野町公園を訪ねました。その際、藤原さんの案内により、「昭和47年卒業記念碑」を見せて頂きました。裏山の藪の中に、その記念碑が朽ちる事なく輝いておりました。

2015年 43年後
2015年 43年後

 記念碑設置から48年がたちますが、今も尚、平野町公園の裏山の藪の中でひっそりと「昭和47年卒業記念碑」は、建ち続けている事と思われます。

2020年8月1日土曜日

70周年

 1950(昭和25)年8月15日、原口忠次郎神戸市長の出席の下、神戸市立少年保養所の開所式が執り行われたと、少年保養所発行の「十年のあゆみ」に記載されております。
 当時、結核撲滅の国家事業の一環として、6大都市に学校併設の小児結核治療施設整備計画が始まり、神戸市においても多くの先人のご苦労により、川崎航空機株式会社の結核療養所の土地17,801坪、建物489坪が買収され、小児結核療養所が開設される事となりました。昭和25年3月、大島芳生初代所長、田中良一事務長以下20数名の職員の発令後、10名の入所児童の受け入れが 既に開始されていたようです。
 学習機関として設置された平野学園は、昭和25年8月31日に神戸市立西戸田小学校、西戸田中学校に改変され、初代校長金沢大助先生が着任されました。(同小中学校は、昭和37年4月に神戸市立西戸田養護学校と改変されております。)
 今年は、神戸市立少年保養所開設から70年を迎えます。私を含め、多くの児童がその恩恵を受け、健康を回復し、巣立って行く事ができました。その後、結核症の制圧が進み、結核症による入所者が減少し、昭和42年からは腎炎や喘息などの児童の受け入れも始まったようです。ピーク時、100名を超えていた入所者数が昭和55年頃には減少し、昭和57年には入所者19名に対し職員数は59名だったようで、神戸市においても協議の末、閉所との結論に至ったようです。そして昭和58年3月、神戸市立西戸田少年保養所はその役割を終え、33年の歴史を閉じる事になりました。 
 少年保養所は一時廃墟となっておりましたが、閉所から24年後の2007(平成19)年3月に平野町公園として整備され、現在に至っております。何度もこの公園を訪れましたが、ここに少年保養所があったと云う印が何処にもありません。裏山に入れば、昭和47年卒業記念碑が今も光を放っているとは思いますが、公園内に小さな石碑でもあればと、いつも残念に思っております。何時の日か「神戸市立西戸田少年保養所跡地」と記された石碑が設置される事を祈っております。