2013年7月15日月曜日

さよなら西戸田より

 植杉さんからの「さよなら西戸田」の第2報として「神戸子どもを守る会」ニュースをご紹介したいと思います。神戸子どもを守る会は、現在も活動を続けておられる組織で、おそらく昭和27年に発足した「日本子どもを守る会」の神戸の組織だと思われます。昭和58年2月25日付けの「神戸子どもを守る会」ニュースに、当時の神戸子どもを守る会会長の難波喜造氏(神戸大学教育学部教授)が「虹消えんとす」と題して少年保養所の閉鎖に言及されておられます。以下、その記事を抜粋し、ご紹介したいと思います。

  
 今年の3月で、神戸市立少年保養所と、そこに併設されている西戸田養護学校とが、閉鎖、廃校されようとしています。・・・・・・このような病気の子どもたちにとっての理想的な構想の施設は、全国でもわずか7ヶ所しか現存しないそうです。神戸市が天下に誇ってよい施設だと思います。
 3年前、保養所と養護学校が30周年を迎えた時、市長、衛生局長、教育委員長は、それぞれ記念誌に文を寄せ、西戸田30年の着実な歩みを評価し、今後の活躍を期待する旨を述べています。
 「神戸のまちが人間味豊かに、健康で文化的な毎日の暮らしを市民に保証する、そのような福祉都市に発展することこそ、私たちの願いであります。」これは宮崎市長のその時の文章の結びのことばです。そのころの市長の気持ちとして、うそいつわりはなかったと考えます。宮崎市長がこの文章を書いた昭和55年9月には、「後方病院等検討委員会」の「小児部門小委員会」が、少年保養所や西戸田養護学校の機能を全て包摂し、いっそう拡大発展させた形の新施設の設置を望む「小児部門の基本的な方向づけに関する報告」を出しているのですから。
 そのすばらしい「後方病院構想」も雲散霧消してしまったようです。・・・・・この誇るべき施設は、廃止され消えてしまおうとしています。神戸市の誇りが、一つ、行政改革の名のもとに消し去られようとしているのです。・・・・わたしたちの声で、病気の子どもたちとその親たちのために、何度でも、もっと大きな、もっと美しい虹をもう一度神戸の空に架けるために力をつくそうではありませんか。

 多くの方々のご尽力にもかかわらず、残念ながら昭和58年3月で、神戸市立少年保養所は閉鎖、西戸田養護学校は廃校となってしまいました。そして「さよなら西戸田」と言う資料が編集されたわけですが、上記の記事の中で、難波氏は西戸田30周年の記念誌のことにふれておられます。この昭和55年の30周年記念誌、是非手に入れたいものです。

2013年7月7日日曜日

昭和57年12月9日の神戸新聞より

 今年の3月に「集合写真 その2」と題しまして、昭和47、48年に西戸田に在籍されていた植杉さんが、当時の集合写真を紹介してくださいました。その植杉さんから、神戸中央図書館に「さよなら西戸田」という、少年保養所閉鎖当時の資料があるので、一度調べてきますとメールをいただいていたのですが、今日、石田勝彦さん(植杉さんと同時期に西戸田に在籍されていた方)と出かけてくださったようです。以下、植杉さんからの報告の一部を掲載させていただきます。

 本の内容は、昭和58年の閉校時に在籍していた生徒の方々の西戸田への思いの文集と後半は、神戸市の閉鎖決定に対する、保護者、教育関係者、関係機関等の存続への願い、及び施設の拡充などに対する陳情書、協議等の経過書類や新聞の記事が記載されていました。



(新聞に記載されている内容は、下記のとおりです。)

 治療しながら学べる病虚弱児施設として知られる神戸市立少年保養所と西戸田養護学校(同市西区平野町西戸田)が閉鎖、廃校の危機にさらされている。入所患者の減少と、年間2億円を超す赤字を理由に、神戸市が今年度末で廃止の方針を固めたもので、患者の父母や教職員らは「患者の減少は医療体制が不十分なのが原因。病虚弱児はむしろ増えている」として、存続運動を始めた。

 少年保養所と同校は、昭和25年に開設され、6万3千平方メートルの敷地に、管理(診療)棟、校舎、プールなどがある。当初は就学可能な小、中学生の結核患者に限っていたが、昭和42年からは対象者を広げ、ぜんそく、腎炎、肥満、自律神経失調、虚弱体質児を受け入れてきた。
 しかし、結核患者の減少に伴い、入所者も少なくなり、36年の135人をピークに、40年88人、50年54人、56年24人となり、現在ではわずか19人に。
 一方、スタッフは保養所が医師3人、看護婦14人、調理師6人など39人。学校は校長以下20人。保養所関係だけで年間2億円の赤字がでており、施設も老朽化。宮崎市長の”行革諮問”機関である神戸市行政改善検討委が、56年末に「廃止・機能転換を検討すべき施設」にあげた。
 このため同市は、事業内容などを再点検、55年9月には、この種の施設を発展強化させた「後方病院」構想をいったん示したものの、その後「県や国の行政分担」として構想を白紙化、同保養所と学校を廃止する方針を決めた。
 これに対し、父母、保養所職員、教職員は猛反対。「病気の子供は勉強するなというのですか」(父母)、「施設の実態や社会的役割を知らない机上の廃止論」(保養所職員)と訴えている。
 長年、病虚弱児教育に携わってきた先生たちは、「子供が少なくなったのは、医療施設の拡充が遅れたためで、入所対象児はむしろ増えている。病弱が理由の長欠児は、百人を超している。」と話しており、市議会への陳情、行政当局への申し入れを準備する一方、25日には「閉鎖問題を考える会」を開き、広く療養と教育のあり方を問う。
 岡田力也神戸市病院管理センター長の話 金銭面の負担に加え、医師の確保が難しく、療養に欠かせない共同生活の最小単位も崩れた。現在の入院患者の6割は、年度内に退院できる見込みだ。三田市の国、県の施設も利用できる。実情を理解してほしい。

 植杉さん、石田さん、猛暑のなか、ありがとうございました。興味深く読ませていただきました。

2013年7月4日木曜日

昭和40年頃の西戸田

 以前、西戸田の航空写真など貴重な記録をご提供して下さった藤原さんが、今回の西戸田同窓会にご夫婦でご参加下さいました。ありがとうがざいます。奥様は、昭和39年から42年にかけて、小学校1年生から3年生の時、西戸田に在籍されていた方ですが、1年前に、ご自身の写真のご提供をしていただいておりました。私の怠慢から、西戸田の四季への掲載がおくれました事をお詫びもうしあげます。昭和40年頃の西戸田です、是非ご覧ください。


日時計

  女子の一寮の南側に昔からあったのですね。ここで、友達といろんな遊びを考え出してよく遊びました。近くの柿の木の良く熟した実が落ちたのを拾って食べジュクジュクでしたが、甘くてとってもおいしかったです。(面会に来た姉と一緒に父が写真を撮ってくれました)


丸池の前



 保養所の正面玄関というイメージがありますが、まわりにあったキンモクセイの良い匂いがしていました。ザクロもあって、実もよく食べました。


箱庭



 保養所から養護学校に 入る通用門の所にあって、よく眺めていました。東側には、藤棚があってきれいでした。