2013年9月12日木曜日

十年のあゆみ その3

 この「十年のあゆみ」が編集されたのは、昭和36年(1961年)であり、私が退所して3年後です。懐かしい先生方のお姿や所内の景色を目の当たりにすることが出来、感激しております。さて今回は、「学校」、「10年の移り変り」と題して掲載されている、残りの写真をすべてお届けしたいと思います。

「学校」



理科の実験

図工の時間

国語の時間

「10年の移り変り」 

開所当時(本館)

開所式

現在の保養所

現在の保養所

秩父宮妃殿下をお迎えして

全国保養所長会議




2013年9月11日水曜日

十年のあゆみ その2

 この「十年のあゆみ」という小冊子の第1ページの一部分に、分からないくらいの本当に小さな字で、「6年 柳原一敏」と書かれています。昭和36年に在籍されていた方のお名前と思われます。この方の小冊子が、なんらかの経緯を経て、今、神戸市文書館に所蔵されているのでしょうか。さて、この「十年のあゆみ」には、20枚程度の当時の写真が掲載されており、「生活の記録」と題する部分を今回ご紹介します。

 生活の記録

食事



模型飛行機を作る



処置


クリスマス

 
日時計を囲んで皆楽しく




遠足


節分



回診



歯科治療




 

2013年9月10日火曜日

十年のあゆみ その1

 神戸市文書館というところで、神戸市立少年保養所、西戸田小・中学校が昭和36年にまとめた、「十年のあゆみ」と言う小冊子を閲覧できる事がわかり、神戸まで出かけてきました。そもそも、この「西戸田の四季」の第一回目の記事「西戸田の一日」は、この「十年のあゆみ」からの引用でした。今回、それ以外の記事や写真や図表など、総ての内容を得ることができました。何回かに別けて、順次ご紹介して行きたいと思います。この小冊子は、原口忠次郎、神戸市長のお言葉から始まるのですが、勝手ながら少し順序を変えてご紹介したいと思います。里の会と育友会の事を記載したページがありますので、ここから始めてみたいと思います。


 
里の会
 昭和30年11月6日第1回総会を開いて、発足したこの会は、以来、毎年秋の菊の頃、総会を持って、6年を重ねる。けだし、かって「西戸田の里」で、療養生活を共にした者たちが、むかしを懐かしみ、在所生をはげます目的で、結成された会である。会長は山根節男氏、第1回総会で就任以来今日に至る。

里の会


育友会
 育友会は、昭和26年5月20日に誕生した。一般学校の場合と同じ目的で結成された学校後援団体で、陰に陽に、学校のために尽くされる誠意は深く、実った功績は大きい。会長は、第1回総会で、保養所設立に関係の深い伊藤利勝氏が推挙され、今日に至る。役員に、副会長3名、書記2名、会計監査2名、そのほか学級委員数名が、毎年1回の総会で互選されるが、児童の在学平均年数が1年と少しだから、たいてい、その年度中に籍が抜ける。しかし、ここの会員であったことの印象は、いつまでも鮮やかであるとみえ、時にふれて訪れる旧会員も多い。

育友会

 
 

2013年8月1日木曜日

さよなら西戸田 第3報

 植杉さんからいただいた「さよなら西戸田」の資料からの第3報です。西戸田養護学校教諭、西谷嘉子先生が前回の「神戸子どもを守る会」ニュースに「西戸田・現場からの報告」と題して投稿された文章です。


 寝耳に水の閉鎖通告 
 昨年11月、突然市衛生局より市立少年保養所職員に対し、58年3月を以って閉鎖の予定であると一方的な通知があり、その旨はすぐに所長より市立西戸田養護学校にも連絡がありました。その時点では市教育委員会は、西戸田養護学校の閉校については何らふれておりませんでしたが、保養所の入所生がなくなれば実質上の閉校です。開校以来、神戸市の病虚弱児の治療と教育の中心的役割を果たしてきた両機関の廃止を傍観していることは、今日まで病気の子どもたちと共に生きてきた私どもにとっては見過ごすことのできぬ問題であり、彼らに対する裏切りとさえ思えました。今、虚弱児の治療と教育について、声を大にして発言することは私たちの義務であると考え、保護者や卒業生の方々と共に、行政当局に対し、「廃止反対、むしろ充実を」との運動を進めてきました。・・・・
 存続を求める3万市民の陳情を不採択に
 こうした中で、赤字経営、医師の確保難を理由とする廃止通告は承服しかねるものでした。以来現場の職員や父母、卒業生退所生及び民主教育をすすめる市民連合等が精力的に署名運動を展開し、12月25日には「西戸田を守る会」が発足し、ジャーナリズムも盛んにとりあげ、広汎な廃止反対運動をくりひろげてきました。・・・・
 許せない弱者きりすて
 その後、西戸田を守る会から、市長に対し、廃止撤回を求める要望書と、市議会への再度の陳情を行い、2月14日には、宮岡助役と面会 、また私ども教職員も、市教委と団体交渉を持ち、病虚弱児教育の改善について要求を積み重ねて行こうとしています。・・・・
 病気の子どもたちは、充分な治療を受け、それぞれがその病気によって発達に障害を生じている部分に光をあてられ、適切な教育を受ける権利があります。生育の途中で不幸にして病気にかかったために、健康な子どもの世界からしめ出され、充分な教育も受けられず、進学や就職の道も閉ざされ、親子共々不運を嘆くといった事態が許されてよいものでしょうか。弱い者が安心して生活できる社会こそが我々が目指さねばならない社会です。・・・・
 最後になりましたが、私どもの署名活動にたいし貴会会員の方々に、年末の忙しい中からの熱心なご協力をいただいたことを感謝しております。


 

 昭和45年に兵庫県立こども病院が、神戸市須磨区に開設され、昭和58年頃には、神戸市をはじめ兵庫県下の小児医療の中心的な役割を、充分に果たすようになっておりました。神戸市内に二つの小児病院は必要はない、と云う事だったのでしょうか。
 

2013年7月15日月曜日

さよなら西戸田より

 植杉さんからの「さよなら西戸田」の第2報として「神戸子どもを守る会」ニュースをご紹介したいと思います。神戸子どもを守る会は、現在も活動を続けておられる組織で、おそらく昭和27年に発足した「日本子どもを守る会」の神戸の組織だと思われます。昭和58年2月25日付けの「神戸子どもを守る会」ニュースに、当時の神戸子どもを守る会会長の難波喜造氏(神戸大学教育学部教授)が「虹消えんとす」と題して少年保養所の閉鎖に言及されておられます。以下、その記事を抜粋し、ご紹介したいと思います。

  
 今年の3月で、神戸市立少年保養所と、そこに併設されている西戸田養護学校とが、閉鎖、廃校されようとしています。・・・・・・このような病気の子どもたちにとっての理想的な構想の施設は、全国でもわずか7ヶ所しか現存しないそうです。神戸市が天下に誇ってよい施設だと思います。
 3年前、保養所と養護学校が30周年を迎えた時、市長、衛生局長、教育委員長は、それぞれ記念誌に文を寄せ、西戸田30年の着実な歩みを評価し、今後の活躍を期待する旨を述べています。
 「神戸のまちが人間味豊かに、健康で文化的な毎日の暮らしを市民に保証する、そのような福祉都市に発展することこそ、私たちの願いであります。」これは宮崎市長のその時の文章の結びのことばです。そのころの市長の気持ちとして、うそいつわりはなかったと考えます。宮崎市長がこの文章を書いた昭和55年9月には、「後方病院等検討委員会」の「小児部門小委員会」が、少年保養所や西戸田養護学校の機能を全て包摂し、いっそう拡大発展させた形の新施設の設置を望む「小児部門の基本的な方向づけに関する報告」を出しているのですから。
 そのすばらしい「後方病院構想」も雲散霧消してしまったようです。・・・・・この誇るべき施設は、廃止され消えてしまおうとしています。神戸市の誇りが、一つ、行政改革の名のもとに消し去られようとしているのです。・・・・わたしたちの声で、病気の子どもたちとその親たちのために、何度でも、もっと大きな、もっと美しい虹をもう一度神戸の空に架けるために力をつくそうではありませんか。

 多くの方々のご尽力にもかかわらず、残念ながら昭和58年3月で、神戸市立少年保養所は閉鎖、西戸田養護学校は廃校となってしまいました。そして「さよなら西戸田」と言う資料が編集されたわけですが、上記の記事の中で、難波氏は西戸田30周年の記念誌のことにふれておられます。この昭和55年の30周年記念誌、是非手に入れたいものです。

2013年7月7日日曜日

昭和57年12月9日の神戸新聞より

 今年の3月に「集合写真 その2」と題しまして、当時の集合写真を紹介して下さいました植杉さんから、神戸中央図書館に「さよなら西戸田」という、少年保養所閉鎖当時の資料があるとメールを頂いていましたが、今日、石田勝彦さん(植杉さんと同時期に西戸田に在籍されていた方)と出かけて下さったようです。以下、植杉さんからの報告の一部を掲載させていただきます。


 本の内容は、昭和58年の閉校時に在籍していた生徒の方々の西戸田への思いの文集と後半は、神戸市の閉鎖決定に対する、保護者、教育関係者、関係機関等の存続への願い、及び施設の拡充などに対する陳情書、協議等の経過書類や新聞の記事が記載されていました。



(新聞に記載されている内容は、下記のとおりです。)

 治療しながら学べる病虚弱児施設として知られる神戸市立少年保養所と西戸田養護学校(同市西区平野町西戸田)が閉鎖、廃校の危機にさらされている。入所患者の減少と、年間2億円を超す赤字を理由に、神戸市が今年度末で廃止の方針を固めたもので、患者の父母や教職員らは「患者の減少は医療体制が不十分なのが原因。病虚弱児はむしろ増えている」として、存続運動を始めた。

 少年保養所と同校は、昭和25年に開設され、6万3千平方メートルの敷地に、管理(診療)棟、校舎、プールなどがある。当初は就学可能な小、中学生の結核患者に限っていたが、昭和42年からは対象者を広げ、ぜんそく、腎炎、肥満、自律神経失調、虚弱体質児を受け入れてきた。
 しかし、結核患者の減少に伴い、入所者も少なくなり、36年の135人をピークに、40年88人、50年54人、56年24人となり、現在ではわずか19人に。
 一方、スタッフは保養所が医師3人、看護婦14人、調理師6人など39人。学校は校長以下20人。保養所関係だけで年間2億円の赤字がでており、施設も老朽化。宮崎市長の”行革諮問”機関である神戸市行政改善検討委が、56年末に「廃止・機能転換を検討すべき施設」にあげた。
 このため同市は、事業内容などを再点検、55年9月には、この種の施設を発展強化させた「後方病院」構想をいったん示したものの、その後「県や国の行政分担」として構想を白紙化、同保養所と学校を廃止する方針を決めた。
 これに対し、父母、保養所職員、教職員は猛反対。「病気の子供は勉強するなというのですか」(父母)、「施設の実態や社会的役割を知らない机上の廃止論」(保養所職員)と訴えている。
 長年、病虚弱児教育に携わってきた先生たちは、「子供が少なくなったのは、医療施設の拡充が遅れたためで、入所対象児はむしろ増えている。病弱が理由の長欠児は、百人を超している。」と話しており、市議会への陳情、行政当局への申し入れを準備する一方、25日には「閉鎖問題を考える会」を開き、広く療養と教育のあり方を問う。
 岡田力也神戸市病院管理センター長の話 金銭面の負担に加え、医師の確保が難しく、療養に欠かせない共同生活の最小単位も崩れた。現在の入院患者の6割は、年度内に退院できる見込みだ。三田市の国、県の施設も利用できる。実情を理解してほしい。

 植杉さん、石田さん、猛暑のなか、ありがとうございました。興味深く読ませていただきました。

2013年7月4日木曜日

昭和40年頃の西戸田

 以前、西戸田の航空写真など貴重な記録をご提供して下さった藤原さんが、今回の西戸田同窓会にご夫婦でご参加下さいました。ありがとうがざいます。奥様は、昭和39年から42年にかけて、小学校1年生から3年生の時、西戸田に在籍されていた方ですが、1年前に、ご自身の写真のご提供をしていただいておりました。私の怠慢から、西戸田の四季への掲載がおくれました事をお詫びもうしあげます。昭和40年頃の西戸田です、是非ご覧ください。


日時計

  女子の一寮の南側に昔からあったのですね。ここで、友達といろんな遊びを考え出してよく遊びました。近くの柿の木の良く熟した実が落ちたのを拾って食べジュクジュクでしたが、甘くてとってもおいしかったです。(面会に来た姉と一緒に父が写真を撮ってくれました)


丸池の前



 保養所の正面玄関というイメージがありますが、まわりにあったキンモクセイの良い匂いがしていました。ザクロもあって、実もよく食べました。


箱庭



 保養所から養護学校に 入る通用門の所にあって、よく眺めていました。東側には、藤棚があってきれいでした。