消灯後の2寮と175号線
1寮2階の部屋から、神姫バスが走る国道175号線が見えていました。午後8時の消燈後には、175号線を走る車のライトが部屋の中まで届いており、眠れぬ夜、部屋の天井を照らす車の灯りを見つめていた事があります。
消灯後もまだ遊び足りない日もありました。廊下や洗面所の灯りをたよりに、悪ガキ仲間が少し夜更かししました。10時頃に、当直の看護婦さんか保母さんの見廻りがあったのですが、さすがに、その後も遊び続けたと云う記憶はありません。
消灯後の2寮と175号線
1寮2階の部屋から、神姫バスが走る国道175号線が見えていました。午後8時の消燈後には、175号線を走る車のライトが部屋の中まで届いており、眠れぬ夜、部屋の天井を照らす車の灯りを見つめていた事があります。
消灯後もまだ遊び足りない日もありました。廊下や洗面所の灯りをたよりに、悪ガキ仲間が少し夜更かししました。10時頃に、当直の看護婦さんか保母さんの見廻りがあったのですが、さすがに、その後も遊び続けたと云う記憶はありません。
三菱自動車ジープ
保養所在籍中に一度だけ、この三菱ジープに乗せてもらった事がありました。5kmほど離れた所にあった神戸市立玉津療養所を受診した時です。現在、玉津療養所は閉院し存在しておりませんが、当時は神戸市の最先端の結核治療病院でした。今で云うCT検査みたいに、結核病巣の部位と大きさが特定できる断層X線撮影検査のために出かけました。おそらく全員の在所児童が、一度は撮影に出かけたと思います。もちろん、単純X線撮影装置は保養所にあり、後藤先生と云う放射線技師さんも一人常勤でおられました。また、結核の外科手術のため玉津療養所に一時転入院された同室の中学生の方がおられた事を思い出します。
昭和33年に解体され、講堂の西側に新築されるまで、風呂場は1寮の東端、食堂の北隣りにありました。給湯室を右に入った所です。7、8人の子供がゆったりと利用できる浴室でした。確か、週2回か3回が入浴日で、夕食より前と後で、男女の入浴時間が分かれていたように思います。この風呂場の移転は、食堂の移転工事と平行して行われました。「十年のあゆみ」には、新しい調理室、浴室は、昭和33年5月竣工と記載されております。
昭和32年4月頃、1寮北側で撮ってもらった写真です。後方、1階の奥に風呂場がありました。
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| 建設中の1寮東病棟 昭和33年3月作 |
この風呂場と食堂は、昭和33年春に解体され、そこに新しい1寮東病棟が完成したわけです。
私が退所したのが、昭和33年3月23日でしたが、残念ながら、新浴室には入れませんでした。
食堂は昭和32年末頃まで1寮と2寮の東側にありましたが、昭和33年に講堂1階へ食堂は移転しました。下の写真の後方右側の建物が最初の食堂です。
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| 永井先生所蔵写真より |
内部は、6人がけのテーブルが沢山並び、とても大きな建物でした。さらに東側には調理室が隣接し、カウンターの向こう側には、大きな鍋からあがる湯気や、中で働く調理人の方が見えていました。
昭和32年の秋頃から講堂の東側の空き地で、何やら工事が始まり柵が設けられている写真が残っております。
さらに上の写真より少し後に描いた絵によりますと、ブロックが積み上げられ、建物らしきものが出現しております。この工事は講堂1階に食堂を移転するための調理室の工事でありました。「十年のあゆみ」によりますと、この調理室は隣接する新浴室とともに、昭和33年5月20日に竣工したようです。
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| 講堂1階食堂 十年のあゆみより |
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| 1972年 作製時 |
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| 1972年 作製時 |
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| 2002年 30年後 |
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| 2002年 30年後 |
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| 1972年 作製時 |
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| 2015年 43年後 |
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| 2015年 43年後 |
1950(昭和25)年8月15日、原口忠次郎神戸市長の出席の下、神戸市立少年保養所の開所式が執り行われたと、少年保養所発行の「十年のあゆみ」に記載されております。
当時、結核撲滅の国家事業の一環として、6大都市に学校併設の小児結核治療施設整備計画が始まり、神戸市においても多くの先人のご苦労により、川崎航空機株式会社の結核療養所の土地17,801坪、建物489坪が買収され、小児結核療養所が開設される事となりました。昭和25年3月、大島芳生初代所長、田中良一事務長以下20数名の職員の発令後、10名の入所児童の受け入れが 既に開始されていたようです。
学習機関として設置された平野学園は、昭和25年8月31日に神戸市立西戸田小学校、西戸田中学校に改変され、初代校長金沢大助先生が着任されました。(同小中学校は、昭和37年4月に神戸市立西戸田養護学校と改変されております。)
今年は、神戸市立少年保養所開設から70年を迎えます。私を含め、多くの児童がその恩恵を受け、健康を回復し、巣立って行く事ができました。その後、結核症の制圧が進み、結核症による入所者が減少し、昭和42年からは腎炎や喘息などの児童の受け入れも始まったようです。ピーク時、100名を超えていた入所者数が昭和55年頃には減少し、昭和57年には入所者19名に対し職員数は59名だったようで、神戸市においても協議の末、閉所との結論に至ったようです。そして昭和58年3月、神戸市立西戸田少年保養所はその役割を終え、33年の歴史を閉じる事になりました。
少年保養所は一時廃墟となっておりましたが、閉所から24年後の2007(平成19)年3月に平野町公園として整備され、現在に至っております。何度もこの公園を訪れましたが、ここに少年保養所があったと云う印が何処にもありません。裏山に入れば、昭和47年卒業記念碑が今も光を放っているとは思いますが、公園内に小さな石碑でもあればと、いつも残念に思っております。何時の日か「神戸市立西戸田少年保養所跡地」と記された石碑が設置される事を祈っております。
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| 昭和37年 西村さん |
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| 昭和37年 裏山のため池か |