2021年12月15日水曜日

年末のご挨拶

 2020年6月、とりあえず継続してみようと再開いたしました「西戸田の四季」ですが、早や1年半が経過しました。今年も、昭和28年に在籍されていた女性の方と、昭和29年から昭和32年まで在籍されていた男性の方から、「私も西戸田少年保養所にいました。」と云うご連絡をいただきました。本当にありがとうございます。「西戸田の四季」を継続していて良かったと喜びを感じる瞬間です。来年もまた、新しい西戸田の仲間に出会える事を楽しみに、「頑張らない」をモットーにやっていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 新型コロナ感染症一時沈静化しておりますが、皆さまどうぞごお体大切に、無事新年を迎えられる事を祈っております。

 

 

2021年12月1日水曜日

昭和32年 保養所百景 講堂(2)

 


 講堂では始業式や終業式、また毎週月曜日だったのでしょうか朝礼も行われていたと思います。さらに毎月の誕生会や年に何度かの映画会がありました。昭和33年1月の誕生会は、我々5年生が当番役で、担任の山根先生作、「保養所桃太郎」の劇と「化学実験」をやりました。他の月も学年順だったのでしょうか、当番が回り、それぞれに出し物が演じられていたと思われます。

        保養所桃太郎

        化学実験

                昭和31年頃 三木さん提供より







 

2021年11月1日月曜日

昭和32年 保養所百景 講堂

 少年保養所の講堂は、少年保養所発行の「十年のあゆみ」によりますと、昭和26年10月8日竣工とあります。2階建で、1階には卓球台を3台ぐらい置けるような大きな部屋がありましたが、昭和33年より食堂として改築されました。2階にあった講堂では、いろいろな学校行事が開催され、皆さんそれぞれに沢山の思い出があると思います。

         昭和33年1月頃 講堂と3寮

 

      昭和38年3月20日 西戸田養護学校第1回卒業式 熱田さん提供

 

        昭和33年1月 1月の誕生会

 

 


 

 

2021年10月1日金曜日

昭和32年 保養所百景 丸池

 

 本館前に噴水の上がる丸い池がありました。何時完成したのかは定かではありませんが、昭和25年の開所すぐに整備されたものと思われます。


      少年保養所「十年のあゆみ」より



      熱田さん提供 昭和37年



      熱田さん提供 昭和37年



        藤原さん提供 昭和40年頃


 この池の周りで遊んだ記憶もありますが、ここで写真を撮られた方も沢山おられる事と思います。




 




2021年9月1日水曜日

昭和32年 保養所百景 本館(2) 


 本館にあった診察室で診察を受けた記憶はありませんが、診察室に入って遊んでいた記憶はあります。婦長さんに膝枕をしてもらって、誰か児童が耳そうじをしてもらっていました。とにかく日当たりのいい、暖かい部屋でした。


      本館 処置室か 10年のあゆみより

 本館の玄関には郵便ポストがあったようです。大事な手紙やはがき、このポストに入れたのでしょう。また、返事の便りが待ちきれず、郵便配達のおじさんが来るのを、この玄関で待っていた方もおられると思います。本館玄関は、少年保養所と外の世界を繋いでくれる大切な場所でした。

 

        本館玄関 郵便ポスト 熱田さん提供 昭和36年


 









 

2021年8月1日日曜日

昭和32年 保養所百景 本館

 

 少年保養所昭和36年発行の「十年のあゆみ」によりますと、昭和25年8月の開所に先立ち、同年5月31日に本館、特別病棟新築竣工とあります。特別病棟と呼ばれている建物は見当たらず、本館の中に「特別病棟」と名付けられた病室があったようですが、詳細は不明です。とにかく、私の昭和32年入所時、本館で療養していた児童はいなかったと思います。本館1階の南側には診察室と処置室、北側には事務室とレントゲン室、そして職員用の浴室があったのを覚えています。2階については、所長室に一度入れてもらった記憶があるだけで、他の2階の構造については全く覚えておりません。


      開所時の本館 十年のあゆみより

 
 保養所発行の「十年のあゆみ」によりますと、所長室、医局、診察室2、検査室、レントゲン室、薬局、病室2、事務室、会議室、図書室、宿直室3、詰所、便所、倉庫などがあったようです。







2021年7月1日木曜日

昭和32年 保養所百景 3寮

 


 3寮は、昭和25年の少年保養所開所から1年後の昭和26年10月に新築された2階建ての病棟でした。私が在籍していた昭和32年当時、1階には男子、2階には女子が生活していました。1階の東側半分は、10人か12人ほどが入る大部屋が一つあり、西側半分は隔離病室になっていたと思うのです。2階には上がった事はありませんが、ほぼ同じ構造だったのではないでしょうか。

      昭和32年 3寮を背に

 昭和33年1月、私は3寮に移動しました。安静度もAクラスになつていたのでしょうか。ただ、Cクラスは1寮、Bクラスは2寮、Aクラスは3寮と云う明確な区分はなかったし、転寮はせず同じ病棟でずっと療養し、退所して行く方もあったと思います。隔離病室と一般の部屋との間には、大きなガラス窓があり、隔離病室側の住人がカーテンをあければ、ガラス越しに話す(?)事ができました。隔離病室での療養生活を経験された方を何人か存じ上げておりますが、ご苦労されたようです。

 

       昭和32年 3寮を背に

      昭和31年 高田学級 3寮を背に (山口さん提供)


 保養所発行の「十年のあゆみ」によりますと、第3病棟には、病室6、詰所2、倉庫、洗面所、便所があったとの事です。





2021年6月15日火曜日

昭和32年 保養所百景 渡り廊下

 2寮から本館、講堂、3寮、学校をつなぐ渡り廊下がありました。 

 食事の時間になると、鐘の音が保養所内に鳴りひびくのですが、小柄な寺内先生(お名前が間違っているかもしれません)が大きな鐘を振りながら、この渡り廊下を3寮に向かって走って行かれる姿を思い出します。

         昭和38年1月 雪の日の渡り廊下 熱田さん提供の写真より


 保養所発行の「十年のあゆみ」によりますと、渡り廊下は昭和26年5月31日竣工とあります。


















2021年6月1日火曜日

昭和32年 保養所百景 2寮投薬室

 2寮1階、階段横に投薬室がありました。食堂での食事が終わると、この部屋に立ち寄ってお薬をもらい、その場で服用していたと思います。結核の治療薬としてパラアミノサリチル酸(通称パス)や、イソニアジド(通称ヒドラとかアイナ)が使われていた時代だったと思います。ストレプトマイシンの注射も使用されていた頃ですが、注射を受けていた児童が居たかどうかは良く分かりません。その後リファンピシンなどが使用されるような時代になると、年単位の治療期間が月単位と非常に短くなりました。



  昭和32年3月 集合写真

 少年保養所に薬剤師さんがおられたと思うのですが、投薬室で内服薬を手渡してもらったのは看護婦さんからだったように思います。集合写真を見てみると、薬剤師さんだったのかなと思われる方が写っておられるのですが、記憶が定かではありません








2021年5月16日日曜日

昭和32年 保養所百景 昭和32年の出来事

  昭和32年はどのような時代だったのか、少し調べてみました。先ず神戸市立少年保養所における昭和32年の最大の出来事は、結核予防会総裁であられた故秩父宮妃殿下が11月8日、保養所においでになった事でしょうか。

        少年保養所発行 十年のあゆみ より

 
 ベッドの上に正座し、お迎えした事を鮮明に記憶しております。後の神戸市長宮崎辰雄氏も同行されました。

 神戸市における昭和32年はと云いますと、4月24日 花時計が始動。5月10日須磨水族館が開館。9月18日須磨浦ロープウェー開業などがあったようです。  また日本における昭和32年の出来事と云えば、1月、日本初の南極観測船「宗谷」が南極大陸に到着し、南極越冬基地が建設された事でしょうか。この宗谷号は、東京お台場の「船の科学館」に展示されております。

 さらに世界における昭和32年の出来事においては、10月、ソ連が人類初の人工衛星スプートニク号の打ち上げに成功し、アメリカとソ連の宇宙開発競争が始まった事が特筆されます。

       東ドイツとチェコスロバキアの記念切手

  すべて64年も昔のお話です。

 

 


 

 

 

 

 

 

 
 


2021年5月1日土曜日

昭和32年 保養所百景 蚊帳

  夏になると少年保養所では、各児童に個人用の蚊帳が配られました。今時、蚊帳などと云っても分からない人も多いと思いますが、6畳用 とか8畳用と云うのでしょうか、ひとつの蚊帳の中に2、3人の布団を敷く事が出来る大きな緑色の蚊帳を、自宅でも使っていた記憶があります。窓に網戸などついていなかった当時の少年保養所では、ベッド毎に1人用の白色の蚊帳を使いました。

 

 1m50cmほどの金属製のポールをベッドの四隅に取り付け、そこにすっぽりと蚊帳を掛けるのですが、小学1年生だった原田君には上まで手が届かないので、就寝前上級生が手伝って毎晩蚊帳を掛けていました。朝になると、その蚊帳をたたむのですが、ずっしりと重い感触を今でも思い出します。冬の湯たんぽと夏の蚊帳、保養所ならではの必需品でした。おかげで、少年保養所の冬が寒かったとか、蚊に刺されて困ったと云う記憶はありません。









2021年4月15日木曜日

昭和32年 保養所百景 詰所


 2寮入口に、所内唯一の看護詰所がありました。入所児童のカルテや生活記録(見た事はありませんが)などが置かれていたのだと思います。常時、看護婦さんや保母さんが仕事をされており、一応無断立ち入り禁止の部屋でありました。夜になると明るくにぎやかな所は詰所だけであり、何となく人が集まり、ぶらりと入って行ったりしておりました。


      夜の詰所

     2寮入り口
 
     2寮詰所

 








 

2021年4月1日木曜日

昭和32年 保養所百景 2寮(2)

 2寮の時も1寮と同じ2階西端、外階段横の部屋でした。

 残念ながら1寮での外階段の写真ですが、2寮も全く同じ造りでした。

 2寮の南側には講堂があり、講堂の向こうには広場が見えていました






2021年3月1日月曜日

西戸田少年保養所閉鎖より38年

 昭和58年(1983年)3月末に神戸市立西戸田少年保養所が閉鎖されてから、今年で38年目となります。以前、加古川に勤務していた頃、第2神明道路をよく利用しておりました。玉津インターを通過する時、ここで高速道路を降りれば西戸田はすぐそこにあると思ったものです。実際に玉津インターを降り、西戸田に向かった事も1、2度ありました。平成9年〈1997年)だったと思います。もう西の方へ来る機会もないかも知れないと思い、玉津インターを降りました。少年保養所にたどり着いて愕然としました。閉鎖されているのです。わずかなスペースに車を停め、しばらく柵の前にたたずみました。すぐには立ち去り難く、西側の小川沿いの道をしばらく歩いた記憶があります。





 閉鎖中の少年保養所、「西戸田の47年卒業記念碑を見に行ってきました 2002年6月1日」より(藤原さん提供)

 

 廃墟となっていた少年保養所跡地は平成19(2007)年に「平野町公園」として整備されました。広いグランドのある美しい公園になっておりますが、残念ながら昔の面影はありません。

 


 



 

 



 


2021年2月15日月曜日

昭和32年 保養所百景 2寮(1)

  昭和32年の7月頃私の安静度はBにあがりました。安静度Bは2寮と決まっていたわけではありませんが、2寮に移動しました。2寮は1寮と同様川崎時代からの老朽化した木造2階建で、病室も1寮と同じ構造。各階に8人部屋が3室あり、1階に女子、2階に男子が生活しておりました。1階の東側入口には、1寮にも3寮にもない所内唯一の「詰め所」がありました。2階への階段下に投薬室があり、また2階の東端には寮母さんの部屋がありました。確か永井先生が入っておられたと思います。

    昭和32年 1寮から見た2寮 


 保養所発行の「十年のあゆみ」によりますと、第2病棟には、病室6、婦長室、詰所、面会室、与薬室、倉庫、洗面所、便所があったようです




2021年2月1日月曜日

昭和32年 保養所百景 検温

 毎日、午後の安静時間に検温があり、看護婦さんが各部屋を巡回しました。脈拍数の測定もあったのですが、8人部屋で実際に看護婦さんに直接脈拍数を測定してもらうのは、その日幸運にも選ばれた(?)一人の児童だけでした。その他7名の児童は自分で自分の手首の動脈を探し、脈拍数を数えました。私も入所最初の検温の時、手首のどのあたりを押さえれば 脈が触れるかを教わりました。

 さて、看護婦さんが部屋に来られると先ず体温計が各人に配られます。我々は、体温計を腋にはさみ、その他7名は自分で脈をとります。看護婦さんの合図とともに脈の触れる数を数え始めます。30秒後ぐらいだったでしょうか、看護婦さんの2回目の合図で脈拍数の測定を終了します。その後看護婦さんは各児童の横に立ち、体温計を回収し記録版に体温を記入します。各児童は頃合いをみながら、「32,1回」などと報告します。脈拍数と排便の回数です。当時、看護婦さんは4,5名おられたのですが、私の記憶の中の検温に登場する方は、いつも秦(旧姓安田)先生です。