2020年12月15日火曜日

年末のご挨拶

  新型コロナ感染症の猛威が続いております。皆さま如何お過ごしでしょう。お見舞い申し上げます。6月に再開致しました西戸田の四季、早や半年が経過しております。特にご報告する事もございませんが、何かに縛られる事もなく、以前よりもずっと自由気ままに書かせて頂いております。皆さまどうぞ良いお年をお迎えくださいと云いたいところですが、今年ばかりはそうも云えないのが残念です。どうぞお体大切に、ご自愛のほどお願い申し上げます。


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2020年12月1日火曜日

昭和32年 保養所百景 貯水槽



 官舎の山側に 貯水槽がありました。

 ため池とは少し距離もあり、関連性はなかったと思われます。おそらく、水道水を少し高い処に汲み上げ、この貯水槽に貯水していたのだと思います。直径3mほどの丸い形をしており、山肌にほとんど埋もれておりました。天井部分に座り絵を描いた時、水を汲むために水槽の中に入ったのですが、ひどく叱られました。

 第一病棟東寮の工事中の絵がその時描いた絵ですが、昭和33年3月頃の出来事です。

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2020年11月15日日曜日

昭和32年 保養所百景 ため池


 1寮のすぐ北側にため池がありました。現在も林の中に残っております。このため池の水がどのように保養所で利用され、役立っていたのか、私には解りません。池の南東の隅に排水孔らしきものがありましたが、ここから池の水は何処に流れていたのでしょう。

       ため池の排水孔

      ため池にて 昭和32年4月

      ため池 平成23年5月

      ため池 平成23年5月


     ため池 平成24年

 

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2020年11月1日日曜日

昭和32年 保養所百景 洗濯場と官舎

 


  1寮のすぐ北側に洗濯場があり、その東側に官舎が建っておりました。

     洗濯場にて 昭和32年5月
 

    官舎にて 昭和32年5月 


 保養所発行の「十年のあゆみ」によりますと、職員公舎、木造瓦葺平屋建2棟(5室、8室)は、昭和25年5月31日竣工。また、洗濯場は、昭和26年5月1日、竣工とあります。

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2020年10月15日木曜日

昭和32年 保養所百景 1寮(3)


      消灯後の2寮と175号線

 1寮2階の部屋から、神姫バスが走る国道175号線が見えていました。午後8時の消燈後には、175号線を走る車のライトが部屋の中まで届いており、眠れぬ夜、部屋の天井を照らす車の灯りを見つめていた事があります。 

 



 消灯後もまだ遊び足りない日もありました。廊下や洗面所の灯りをたよりに、悪ガキ仲間が少し夜更かししました。10時頃に、当直の看護婦さんか保母さんの見廻りがあったのですが、さすがに、その後も遊び続けたと云う記憶はありません。

 


 
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2020年10月1日木曜日

昭和32年 保養所百景 車庫


  保養所の東端に車庫がありました。公用車の三菱自動車製ジープが収納されていました。昭和30年前後は、まだ純国産乗用車は数少なく、日野自動車はフランス製のルノーを、いすゞ自動車は英国製のヒルマンを代理製造しておりました。三菱自動車のジープは勿論アメリカ製の4輪駆動車ですが、昭和31年には完全国産化されたとの事で、保養所のジープがどの時期のものだったのか定かではありません。

    三菱自動車ジープ
 

 保養所在籍中に一度だけ、この三菱ジープに乗せてもらった事がありました。5kmほど離れた所にあった神戸市立玉津療養所を受診した時です。現在、玉津療養所は閉院し存在しておりませんが、当時は神戸市の最先端の結核治療病院でした。今で云うCT検査みたいに、結核病巣の部位と大きさが特定できる断層X線撮影検査のために出かけました。おそらく全員の在所児童が、一度は撮影に出かけたと思います。もちろん、単純X線撮影装置は保養所にあり、後藤先生と云う放射線技師さんも一人常勤でおられました。また、結核の外科手術のため玉津療養所に一時転入院された同室の中学生の方がおられた事を思い出します。

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2020年9月17日木曜日

昭和32年 保養所百景 風呂場

 

 昭和33年に解体され、講堂の西側に新築されるまで、風呂場は1寮の東端、食堂の北隣りにありました。給湯室を右に入った所です。7、8人の子供がゆったりと利用できる浴室でした。確か、週2回か3回が入浴日で、夕食より前と後で、男女の入浴時間が分かれていたように思います。この風呂場の移転は、食堂の移転工事と平行して行われました。「十年のあゆみ」には、新しい調理室、浴室は、昭和33年5月竣工と記載されております。

 昭和32年4月頃、1寮北側で撮ってもらった写真です。後方、1階の奥に風呂場がありました。

 

建設中の1寮東病棟 昭和33年3月作

 この風呂場と食堂は、昭和33年春に解体され、そこに新しい1寮東病棟が完成したわけです。

 


 講堂西側の建物が、昭和33年に完成した浴室です(藤原さん提供の航空写真より)。

 

 私が退所したのが、昭和33年3月23日でしたが、残念ながら、新浴室には入れませんでした。


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2020年9月1日火曜日

昭和32年 保養所百景 食堂



 食堂は昭和32年末頃まで1寮と2寮の東側にありましたが、昭和33年に講堂1階へ食堂は移転しました。下の写真の後方右側の建物が最初の食堂です。

永井先生所蔵写真より
     

 内部は、6人がけのテーブルが沢山並び、とても大きな建物でした。さらに東側には調理室が隣接し、カウンターの向こう側には、大きな鍋からあがる湯気や、中で働く調理人の方が見えていました。多くの方が記憶されている「ゆで卵」が、カウンターの上に置かれましたが、この「ゆで卵」のルールが解らない新入所者には、悩ましい光景でした。

 


 

 昭和32年の秋頃から講堂の東側の空き地で、何やら工事が始まり柵が設けられている写真が残っております。

 

 さらに上の写真より少し後に描いた絵によりますと、ブロックが積み上げられ、建物らしきものが出現しております。この工事は講堂1階に食堂を移転するための調理室の工事でありました。「十年のあゆみ」によりますと、この調理室は隣接する新浴室とともに、昭和33年5月20日に竣工したようです。


講堂1階食堂 十年のあゆみより

  

 

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2020年8月14日金曜日

保養所百景 昭和47年卒業記念碑

 少年保養所70周年の記載の中で、「昭和47年卒業記念碑」について触れたのですが、詳しく紹介させて頂きたいと思います。1972年、昭和47年西戸田養護学校卒業の中学3年生の方々が、卒業記念として石碑を製作されました。コンクリート製だったでしょうか。保養所の裏山、当時は遊歩道もあった所に設置されたようです。

 その製作に携わった藤原さんと云われる方が、30年後の2002年に、廃墟となった少年保養所を探訪されました。そして、その記録「西戸田の47年卒業記念碑を見に行ってきました。2002年6月1日」を、後日、西戸田の四季に提供して下さいました(2012年5月掲載)。この貴重な記録から我々も、作製された時の記念碑の姿、2002年に再訪された30年後の記念碑の姿を知る事が出来ました。

1972年 作製時



1972年 作製時
2002年 30年後
2002年 30年後
 
 さらに、植杉さんと云われる昭和47年記念碑の製作仲間の方からも、記念碑を取り囲む卒業生の写真を提供して頂きました。

1972年 作製時
 
 2015年、第4回西戸田同窓会が明石で開催された時、参加者の有志が少年保養所跡地の平野町公園を訪ねました。その際、藤原さんの案内により、「昭和47年卒業記念碑」を見せて頂きました。裏山の藪の中に、その記念碑が朽ちる事なく輝いておりました。

2015年 43年後
2015年 43年後

 記念碑設置から48年がたちますが、今も尚、平野町公園の裏山の藪の中でひっそりと「昭和47年卒業記念碑」は、建ち続けている事と思われます。

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2020年8月1日土曜日

70周年

 1950(昭和25)年8月15日、原口忠次郎神戸市長の出席の下、神戸市立少年保養所の開所式が執り行われたと、少年保養所発行の「十年のあゆみ」に記載されております。
 当時、結核撲滅の国家事業の一環として、6大都市に学校併設の小児結核治療施設整備計画が始まり、神戸市においても多くの先人のご苦労により、川崎航空機株式会社の結核療養所の土地17,801坪、建物489坪が買収され、小児結核療養所が開設される事となりました。昭和25年3月、大島芳生初代所長、田中良一事務長以下20数名の職員の発令後、10名の入所児童の受け入れが 既に開始されていたようです。
 学習機関として設置された平野学園は、昭和25年8月31日に神戸市立西戸田小学校、西戸田中学校に改変され、初代校長金沢大助先生が着任されました。(同小中学校は、昭和37年4月に神戸市立西戸田養護学校と改変されております。)
 今年は、神戸市立少年保養所開設から70年を迎えます。私を含め、多くの児童がその恩恵を受け、健康を回復し、巣立って行く事ができました。その後、結核症の制圧が進み、結核症による入所者が減少し、昭和42年からは腎炎や喘息などの児童の受け入れも始まったようです。ピーク時、100名を超えていた入所者数が昭和55年頃には減少し、昭和57年には入所者19名に対し職員数は59名だったようで、神戸市においても協議の末、閉所との結論に至ったようです。そして昭和58年3月、神戸市立西戸田少年保養所はその役割を終え、33年の歴史を閉じる事になりました。 
 少年保養所は一時廃墟となっておりましたが、閉所から24年後の2007(平成19)年3月に平野町公園として整備され、現在に至っております。何度もこの公園を訪れましたが、ここに少年保養所があったと云う印が何処にもありません。裏山に入れば、昭和47年卒業記念碑が今も光を放っているとは思いますが、公園内に小さな石碑でもあればと、いつも残念に思っております。何時の日か「神戸市立西戸田少年保養所跡地」と記された石碑が設置される事を祈っております。


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2020年7月10日金曜日

西村写真館

 昭和26年10月から1年間半、西戸田に在籍されていた西村さんと云われる女性の方よりご連絡があり、大切に保管されておられた写真をご提供いただきました。小学4年生だったとの事で、小学1年生の妹さんも入所されていたそうです。当時は、布団もご自宅から持参して、入所されたそうです。
 送っていただいた写真の中に、昭和37年のものがあるとの事でした。その1枚に、熱田写真館で掲載させて頂いた、昭和37年11月11日に少年保養所で開催された「西戸田里の会」(西戸田在籍者が集う同窓会)当日の写真と非常に良く似ている光景の写真がありました。


  昭和37年11月11日の「西戸田里の会」の日の写真かも知れません。あと2枚の写真も、昭和37年の写真との事。当日のお写真かもしれません。
 
昭和37年 西村さん

 
昭和37年 裏山のため池か

 次は、昭和27年の集合写真です。 前列中央眼鏡に黒い背広の方が、御手洗先生との事です。講堂南側での撮影のようです。
 次は、昭和27年3月20日、小学4年生の時の集合写真との事です。

  最後の1枚は、昭和37年5月27日、神戸小学校の講堂で撮影された「神戸市立少年保養所、西戸田小学校歓送迎会」の写真です。安田先生の送迎会だったとの事です。
  私が在籍していた昭和32年当時の、4年生の担任の高田先生、5年生の担任の山根先生、美術の瀬尾先生、波多野校長のお顔も見え、盛大な歓送迎会だったようです。

 西村さん、貴重なお写真をありがとうございました。



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2020年7月8日水曜日

昭和32年 保養所百景 給湯室


 1寮から裏山への出口に、給湯用の蛇口が並んでいる部屋がありました。冬の寒い時期、消灯時間が近づくと、各病棟から「マイ湯たんぽ」を持った子らが集まって来ました。この給湯室には裸電球が一つか二つ、薄暗い部屋でした。

 

 
 木の桶に湯たんぽを斜めに立てて、蛇口から熱いお湯を満たしました。分厚い綿の袋に湯たんぽを入れ、胸に抱きかかえるように、また、来た道を部屋にもどりました。保養所の冬が寒かったと云う記憶はあまりないので、この湯たんぽが役立っていたのでしょうか。


 昭和33、34年に旧1寮が改築された後、この給湯室はどうなったのでしょう。

2020年7月5日日曜日

昭和32年 保養所百景 1寮(2)

 1寮2階には、8人部屋が3室ありましたが、私の部屋は、端の2ベッドが片付けられ6人部屋でした。

 


   
 昭和36年少年保養所発行「十年のあゆみ」生活日課表(簡略化)より

 入所時はCクラスでしたので、毎食後に安静時間がありました。退屈ではありましたが、ベッドの中は居心地も良く、先生方や児童の様子から、保養所内のルールを少しづつ学んでおりました。

2020年7月1日水曜日

昭和32年 保養所百景 1寮(1)

 今日から「昭和32年 保養所百景」と題し、私がお世話になっていた昭和32年を中心に、神戸市立西戸田少年保養所の当時の建物や行事などを紹介して行きたいと思います。先ず第1回目は1寮です。

 昭和32年3月13日、小学4年生の学年末に少年保養所に入所しました。入った病棟は、保養所の一番奥にあった1寮でした。2階の西端、外階段横の部屋でした。ちなみに、1階は女子部屋でした。

 

   


 1寮前にて 昭和33年3月 西戸田小学校5年山根学級
        1寮

  この1寮は、戦前の川崎航空機の結核療養所時代からの建物であり、かなり老朽化が進んでおりました。昭和33年に第1病棟東寮、昭和34年に第1病棟西寮として、2階建ての1寮は東西に分かれて、平屋の病棟として改築されました。


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