2013年9月14日土曜日

十年のあゆみ その5

 今回は、神戸市衛生局長の堀道紀氏が、「十年のあゆみ」に寄稿された文章です。少し長い文章ですが、その当時のご苦労が感じられる一編ですので、その全文をご紹介いたします。

神戸市立少年保養所創立10周年記念誌によせて
                 堀 道紀

1 開設の経緯について
 少年保養所の開設は神戸市衛生局が発足して始めての新設事業であったことで記念誌発刊にも重要な意義を見出し得るとも云えよう。即ち神戸市衛生局が発足したのが昭和22年8月、そして緒方英俊先生が中央市民病院長から初代局長として就任され、不肖も大阪府から招かれて防疫課長に就任したのは同年9月16日であった。緒方先生は満1ヶ年で退任されたあとに阿部敏雄先生が2代局長として厚生省から天下りして来られた訳であるが、当時は私自身も終戦直後の惨鼻を極めた、天然痘、発疹チフス等の悪疫防疫作業をあらかた片付け、占領治下ではあったが今後の市衛生行政を如何に発展せしめるべきかについて阿部局長の下でいろいろ再検討する段階に入った頃であった。
 そこで衛生局の機構改革が私の発案で先ず採り上げられ、当時の庶務、保健及び防疫の直属3課と作業部(部長森川氏の下に第1、第2の二課)を庶務、医務、公衆衛生及び予防の直属4課とし、更に作業部も従来の第1課(塵埃)、第2課(屎尿)の外に第3課(鼠族昆虫)の3課とした機構が実現したのであったがこの事務措置に就いては当時の寺畑企画課長(現兵庫県総務部長)と狩野課員(現人事課長)等にお世話になったことを懐かしく思い出す。以上の本庁関係組織の外に、中央市民、須磨市民、東山市民病院と各保健所等の新職制の外に衛生研究所をも発足せしめたが、私自身新職制の下で衛生研究所長兼医務課長の発令を受けたのは昭和24年4月であった。その頃漸く結核予防活動としての集団検診等の事業も軌道に乗りつつあった頃でもあったが、特に学童の結核予防を厚生省が大きく採り上げた頃でもあった。時の厚生省結核予防課長は小川朝吉君(現愛知県衛生部長)で、同君は例のエネルギッシュな仕事をされて先ず学童結核予防事業としての学校併設の小児結核予防、治療施設を6大都市から整備しようと云う段階でもあった。即ちこの第一着手として神戸市に少年保養所開設の議が小川課長から持ち出され、昭和24年度の国庫2分の1補助の公共事業として神戸市に於いても実施と決定、市会の承認を得たのであった。この種の施設としては戦前既に名古屋市と横浜市に教育関係(文部省)主管のものがあったが、戦時中、中断されていた。小川課長はかかる施設は衛生関係主管とすべきとの構想の下に企画され、神戸市立少年保養所がその新構想の施設として全国にさきがけて開設されることと相成った次第であった。

2 開設の具体的運びについて
 扨このような構想の施設を何処にどのようにして開設すべきやについては、私は当時の医務課係長の福田勇君(現伊川谷出張所長)に命じて種々考究企画させ、本省関係との事務折衝をも行わせたが、本施設の実際的な産婆役は福田君であると言えよう。学園併設については当時の木戸教育長を始め、田渕体育課長と南学校保健係長(現中央市民病院庶務課長)等、教育委員会の関係者の協力を仰いだが、土地の撰定には相当手を焼いたことであった。旧市内に適地を求めたけれども何れも「帯に短し、たすきに長し」の類で仲々見つからず、その頃新しく合併された旧明石郡の町村域に探究の手が延びたのも自然であったとも言えよう。その第一候補として当時日本海員掖済会結核療養所として設立されたまま放置されていた、現市立玉津療養所の土地建物が挙げられた。斎藤助役や阿部局長らと共々に、玉津町所在の土地建物を視察した結果、可なり宜しいと云うことで掖済会側と買収交渉に入ったところ、価格がてんでお話にならないため、中止となった。この建物が改めて神戸市立玉津療養所として発足したのはその2年後の昭和26年度末であったことは周知の通りである。
 その頃私自身新合併の町村の元隔離病舎を視察中で偶々玉津出張所に参上したことがあった。時の初代出張所長は旧村長の安井弥八君であったが、(医師で後に垂水保健所長にも就任してもらた)、同君と一杯傾けての話し合いの途中で、少年保養所の候補地難の話をしたところ、同君は、平野(現地)の川崎航空の結核療養所跡はどうだろうかとの御話が出た。善は急げとばかり、玉津から平野に参り、初代平野出張所長戸田純一氏の案内で具に現地調査を行ったのであった。「古き都を来てみれば、あさぢが原とぞ荒れにける。月の光はくまなくて、秋風のみぞ身には泌む」という平家物語の詩篇の感が深い、土地、建物のたたずまいではあったが、敷地18,000坪(うち平地8,000坪、山地10,000坪)、建物は、老朽した3病棟が、ほこりにまみれて寒々と建っていたことを憶いだす。併し、暴風雨で倒れたという本館を建設すれば、3つの旧病棟は、補修で何とか使用出来ると考えられたのであった。その後所有者との間の買収交渉に入り、その価格も予算上丁度よろしいし、市当局、市議会関係の事務折衝もスラスラと運んで、漸く少年保養所開設の目途がついたのは昭和24年も残り少なくなっていた頃であったと思う。
  そこで「エピソード」が一つ、それは当時の市会衛生常任委員会の委員長は垂水区選出の吉田粂一議員、副委員長は兵庫区選出の渡辺軍二であったが、吉田委員長は、旧建物の危険性について十二分の駄目押しをされたものであった。例えば旧建物の柱の太さなど、余りに細を穿った御質問であったので不思議に思ったところ、吉田先生の曰く、「あの建物の危ないことは、我が輩が最も熟知している。何となれば終戦間近い頃川崎航空から建物を請負った当人は、自分自身である」との御託宣には 全く恐れ入った次第であった。その後旧建物の補強には、特に配意したのでその後のジェーン台風の時も倒潰もせず一度の災害もみなかったことは一に吉田議員の御注意の賜でもあったろうと今でも有難く思っている次第である。斯くして第1期工事の本館の新設と、旧建物の補修が、飯田組の手で行われ、昭和25年1月末に、大島芳生所長、田中良一事務長以下、二十数名の職員の発令を行って3月下旬に若干名の学童の入所を見、昭和24年度開設の面目をやっとのことで果たしたのであった。尚初代の附設学園長として教育委員会から、御手洗先生の着任をみて、併設の教育事業も並行して極めて円滑に進行したことも感謝に堪えなく思った次第であった。
 その後早くも10年の歳月が流れて、所長も第4代目の荒木林三博士となり、同博士の御依頼でこの拙文をものにしたが、開所式当日のスナップ写真を引き出して眺めたところ御臨席の原口市長も極めてお若く、そして私自身も尚少年(?)の俤すら見出し得て、独り感慨に耽った次第であった。

(昭和35年11月14日於富山市官舎)
(前神戸市衛生局長、現富山県衛生研究所長)
  

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